上司との関係。どこまで「経営方針」が共有されていたのか・・・

2017.04.17 (月)

「電話」等ですぐに再確認などできなかった時代の情報認識のズレの悲劇・・・(T_T)

 

時代背景のご紹介は前回で終わりとして本編に戻りますね(^^)

 

今回は「頼朝社長」「義経さん」「後白河法皇」の3人を軸として動いていきます。後白河法皇は自分の権力維持のために2人の兄弟の間に・・・、うまく入って利用していきます(T_T)

 

でもこれは・・・、頼朝社長・義経さんの間でしっかりと共通の認識がされていれば後白河法皇も割って入れないと言うことに本来ならなりますよね。それが・・・、できていなかったんですよねえ、2人の間に・・・(^_^;)

 

この2人の上司と部下としての「認識のズレ」がいずれ修復不可能になりまで傷口が広がり、悲劇的な展開になって行ってしまいます。

 

と言うことでまずは前回ピックアップしました・・・、

1、「個」で考えるか「組織」で考えるかの「意識」の違い

2、積極的に相手を知ろうとしなかった「すれ違い」

について考えてみましょう。

 

と言ってもじゃあ「その原因は何なの?」となれば結局次の3まで全部からんで来るのですが、とりあえずここは分けて考えてみます。

 

頼朝社長と義経さんの関係がこわれたのは・・・、義経さんのスタンドプレーに頼朝社長が腹を立てたのが理由の1つと言われています。「源平の合戦」は主に「鎌倉」での本社で頼朝社長が全体の指揮を取り、その部下たちが各地で平氏と戦うと言う体制が敷かれました。つまり頼朝社長は・・・、前線にいないんですね・・・(^_^;)

 

これはどんな戦でもいわゆる「本陣(ほんじん)」があり、そこから社長が戦局を見て指示を出すわけですが、なにぶんこの「源平の合戦」は・・・、指示を出すのが東日本と鎌倉↔戦局の前線が京より西の西日本とかなり距離がはなれていたんですね。

 

頼朝社長が鎌倉に残った理由としては「東国がまだまとまっていないので動けなかった」と言うのが1つにあげられます。

 

更に言うと義経さんと頼朝社長が初めて会ったのは治承4年(1180年)の「富士川の戦い※」の直後、それから義経さんが平氏追討のため寿永2年(1183年)と言われています。

※富士川の戦い-駿河(静岡県)国の富士川をはさんで源氏と平氏が対した戦い。夜に源氏側が奇襲をかけようとした時に富士川にいた沢山の水鳥が反応し、飛び立ったのを平氏側が「大軍が来た」と勘違いして戦わずに逃げてしまい負けたと言う話しがあり。

 

この3年の間を・・・、長いと見るか短いと見るか・・・??? ですね・・・。

 

まあ昔の人は親兄弟と言えども偉い人たちであれば別の屋敷に住んでいましたしけっこう距離も離れていたりしていて、それこそ顔を合わせない時は何ヶ月も会うこともなかったと言います。現代の「1つ屋根の下の家族」とは訳が違うわけで、ましてや頼朝社長はこの当時先ほど出た「東国の武士をまとめる」ことや「西日本の平氏の動向」等の対応、更には「鎌倉幕府の機構立案」等もこの当時から考えていたでしょうから「上司としての仕事」がかなり忙しかったと思われ結果的には・・・、ほとんど義経さんとゆっくり話す時間もあまり取れなかったんではないかと予想ができます。

 

そんな状態の時にどこまで・・・、年下で政情にうとい義経さんと経営方針をしっかりと共有できていたのか? となるとほとんどできなかったのではないかなあと思ったりします。その「意識のズレ」が・・・、悲劇になってしまいます・・・(T_T)

 

通信手段が発達している今でも充分ありえることで・・・、こわいっすねえ・・・(^_^;)

 

次回につづきます。

 

明日も1日歴史でたのしくいきいきと!

 

 

部下マネジメント術をまとめた「無料レポート」はこちらから

 

無料レポート虎の巻(無料)はこちら≫

 

▼シェアをお願い致します!▼

関連する投稿

現在の記事: 上司との関係。どこまで「経営方針」が共有されていたのか・・・

お問い合わせ・ご相談はこちら

お電話でのお問い合わせ

090-5781-9597

フォームからのお問い合わせ

お問い合わせフォーム »

コラムテーマ一覧

過去のコラム

⇑ PAGE TOP